玉縄城

玉縄城たまなわじょう
神奈川県鎌倉市城廻
Mapion

--七曲りに復元される冠木門--
別名 甘縄城
交通 JR東海道本線「大船駅」から徒歩25分。
築城年代 1512年(永正9)
築城者 伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)
形式 山城
主な城主 北条綱成・北条氏勝・本多正信
1512年(永正9)8月、伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)は相模国一帯に勢力を誇っていた三浦義同(道寸)が籠もる岡崎城を攻略、更に敗走する義同を追撃し、鎌倉に入る。伊勢宗瑞は新井城に逃れた義同に備える為、また武蔵からの義同への援軍を押さえ、三浦半島へ入れない為に玉縄城を築いた。
三浦氏滅亡後、玉縄城は北条氏時、次いで為昌が置かれ、その後綱成が城主となると、氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が続き、その一門は「玉縄衆」として鎌倉を守る活躍もする。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、城主氏勝は山中城に籠もる。山中城落城後も玉縄城へ戻り籠城するが、その後開城した。
後北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入国すると氏勝は下総国岩富城に移され、代わって本多正信が1万石で入城、その後水野正忠を経て、1625年(寛永2)松平正綱が入城するが、1703年(元禄16)孫である正久が上総国大多喜城に移ると廃城となった。
中心部である本丸一帯は清泉女学院高校敷地となり、遺構のほとんどが消滅しているが、東に隣接する諏訪壇(物見台)付近には遺構が残されているようで、事前に学校に申し込みをすれば見学出来る。その他も宅地化により遺構の多くが失われているが、現在七曲りや太鼓櫓付近は整備が行われている。
Mapion
諏訪壇(物見台)下を通る七曲り
Mapion
太鼓櫓跡
太鼓櫓跡下を通る
七曲り旧道(掘底道)
南下から見る本丸跡
現清泉女学院高校敷地
Mapion
大手門跡
現清泉女学院高校裏門
陣屋坂
Mapion
城址碑
陣屋坂西上に建つ第六天社
土塁とも思われる土盛りが見られる
Mapion
玉縄首塚
戸部川の戦い

参考文献 「現地案内板」
                      「千葉・神奈川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 2
2007年2月
2013年2月