埼玉県羽生市東5丁目 --城址碑-- |
別名 | |
交通 | 各線「羽生駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1532〜55年(天文年間) |
築城者 | 広田直繁・木戸忠朝 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 広田直繁・木戸忠朝 |
羽生城の築城年代ははっきりしないが、元々羽生領に在ったとされる小田原市安楽寺の三宝荒神像に1536年(天文5)付けで広田直繁・木戸(河田谷)忠朝兄弟の銘があり、この頃、直繁が城主であったとみられる。直繁・忠朝は古河公方足利晴氏に属していたが、1552年(天文21)後北条氏に攻められ落城、中条出羽守が城代として置かれた。 1560年(永禄3)10月、上杉謙信が関東に出陣すると、直繁・忠朝は越後軍に従って中条出羽守を追い、再び直繁が羽生城に復帰する。翌年忠朝は皿尾城に移った。 その後謙信の関東出陣の際、直繁と忠朝は軍役五十騎を課せられ、常に参陣しており、1570年(元亀1)2月、直繁は上野国館林城に移り、忠朝が羽生城を守った。 以後謙信の関東侵攻における拠点となった羽生城とその周辺は後北条氏との抗争が続き、1573年(天正1)深谷城主上杉憲盛が後北条氏に降ると、1574年(天正2)謙信は羽生城が越後国から遠く、救援に間に合わない事から城を破却し、忠朝以下城兵1千名を上野国膳城に移した。 翌年羽生城は後北条氏麾下、忍城主成田氏長が支配し、成田長親・善照寺向用斎・野沢民部らに守らせた。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、善照寺向用斎は成田氏長の命により羽生城を放棄し、忍城に立て籠もった。そして7月16日、忍城も開城した。 同年8月、徳川家康が関東に入国すると羽生城は大久保忠隣が2万石で城主となる。1594年(文禄3)忠隣は父忠世の死により家督を継いで小田原城に移るが、羽生城主も兼ねており、禄高は7万石に達したといわれる。 1614年(慶長19)1月、忠隣は改易となり、羽生城も廃された。その後天領となり、代官の支配となった。 城址の大半は宅地や曙ブレーキ工業敷地となり、遺構は消滅している。天神曲輪跡は羽生古城天満宮となり、境内に城址碑・案内板が立つ。 ●羽生陣屋 1867年(慶応3)岩鼻代官木村飛騨守勝教の支配下となり、この地は川俣関所に近い要地であった事から羽生城址に陣屋が構築されたが、1868年(明治1)完成間も無く、官軍に攻められ焼き払われた。 |
天神曲輪跡に建つ羽生古城天満宮 | 羽生古城天満宮 | 天満宮北側 |
曙ブレーキ工業敷地 | 陣屋跡に建つ高山稲荷神社 |
旗掛け松 |