青森県弘前市堀越柏田 --本丸北堀跡-- |
別名 | 堀越楯 |
交通 | 各線「弘前駅」からバス「堀越」下車。 |
築城年代 | 1336年(建武3) |
築城者 | 曾我太郎貞光か |
形式 | 平城 |
主な城主 | 大浦(津軽)為信 |
1336年(建武3)南朝方であった曾我太郎貞光により築かれたと考えられる。貞光はその後北朝方に転じ、1380〜92年(元中年間)南部氏に攻め滅ぼされた。 1567年(永禄10)大浦城主となった大浦(津軽)為信は、南部氏からの独立と津軽統一を目指す。1571年(元亀2)支城であったこの堀越城を前線基地として挙兵、5月5日津軽郡代であった南部高信が守る石川城、そして小山内讃岐が守る和徳城の2城を1日で攻略した。更に1575年(天正3)大光寺城、1578年(天正6)には浪岡城の北畠顕村を攻略し、津軽を統一すると、豊臣秀吉から所領を安堵され、津軽氏を称した。 1594年(文禄3)為信は大浦城は領内の統治に不向きとして堀越城を本拠とするが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦に出陣した際、板垣将兼が尾崎喜蔵・多田玄蕃らと共に謀反を起こし、堀越城を占拠するという事件が起きている。 1603年(慶長8)為信は弘前城の築城を開始し、1607年(慶長12)為信は没するが、築城は3男で2代藩主信牧に引き継がれ、1611年(慶長16)完成した弘前城へ移った。そして1615年(元和1)堀越城は一国一城令により廃城となった。 現在城址は熊野宮敷地や畑になっており、二の丸は国道により東西に分断されているが、本丸周囲に堀跡や土塁が良く残されている。 |
入口に立つ城址碑 こちらが大手だったという |
北(二の丸)から本丸方面 | 二の丸虎口土塁 |
本丸北堀跡 | 本丸 熊野宮敷地となる |
発掘中の本丸 |
本丸土塁 | 本丸東堀跡 | 堀内に残る畝?土橋? |