1580年(天正8)羽柴秀吉の弟秀長による第二次但馬攻めで有子山城は落城し、山名氏は滅亡した。山名氏の後、木下氏・青木氏・前野氏らが城主となり、1595年(文禄4)播磨龍野城から小出吉政が5万3千石で入城した。 1604年(慶長9)吉政が和泉岸和田城へ移ると、有子山城は吉政の子吉英が継ぎ、この頃山麓の居館部を改修して出石城が築かれ、有子山城は廃城となった。 小出氏が9代約100年出石城を受け継いだ後、1697年(元禄10)武蔵国岩槻城から松平忠徳が入城し、1706年(宝永3)信濃国上田城へ移ると、入れ替わりで仙石政明が5万8千石で入城する。以後仙石氏が7代続いて明治を迎えるが、この仙石氏時代に御家騒動(仙石騒動)が起こり、3万石に厳封されている。また出石の郷土料理「出石そば」は政明が国替えの際、信濃国から蕎麦職人を連れてきた事に始まるとされる。 有子山城麓、北斜面に築かれており、最高所の稲荷神社が建つ稲荷曲輪から下に向かって本丸・二の丸・下の曲輪・三の丸と配され、その両側には西の曲輪・山里丸が設けられている。城下は現在も町割りが
良く残されており、また多数の寺院は緊急時に軍事施設として使用する事が想定されていたといわれ、経王寺・見性寺には二層櫓様の鐘楼が残されている。 |