粕尾城

粕尾城かすおじょう
栃木県鹿沼市中粕尾
Mapion

--西、思川対岸から本丸遠望--
別名 寺窪城
交通 東武日光線「樅山駅」からバス「口粟野車庫」下車。
バス停から徒歩80分。
築城年代 1382年(永徳2)頃
築城者 小山義政
形式 平山城
主な城主 小山義政
1177〜81年(治承年間)足利忠綱により築かれたという伝説があるが、一般に1382年(永徳2)頃、小山城主小山義政により築かれたといわれる。
1380年(康暦2)5月、義政は領地争いをきっかけに対立する宇都宮城主宇都宮基綱を裳原合戦で討ち、鎌倉府の干渉に叛旗を翻した為、鎌倉公方足利氏満は関東八ヶ国に義政討伐を命じた。これは勢力を拡大する義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされる。6月、武蔵府中に着陣した氏満は上杉憲方・上杉朝宗・木戸貞範の3人を大将とし、8月上旬頃、小山領へ攻め込んだ。8月12日、神鳥谷の大聖寺で「御陣取之合戦」、次いで29日、「義政屋敷西木戸口合戦」が行われたと「烟田文書」は伝えるが、この「義政屋敷」については神鳥谷曲輪であると考えられている。そして9月上旬、約1ヶ月に及ぶ合戦の末、義政は降伏した。
しかし翌年2月、義政は再び挙兵し、本城の鷲城を中心に、新城(長福寺城)・祇園城(小山城)・岩壷城(中久喜城か)・宿城(神鳥谷曲輪)の守りを固めて鎌倉府軍を迎え撃つも敗北、小山城に移って出家し、永賢と号した。
1382年(永徳2)3月、義政は三度挙兵し、小山城を焼いて脱出、密かに築城していたこの粕尾城に立て籠もった。しかし衆寡敵せず、義政は子である若犬丸を逃した後、思川対岸の「陣の手」で戦い、更に「櫃沢の城」で最後の抵抗の末、自刃した。「小山義政の乱
奥州へ逃れた若犬丸は1386年(至徳3)5月、突如挙兵して小山城に立て籠もるが、鎌倉方に敗れ、常陸国小田城主小田孝朝の下へ逃れた。その後会津国に遁走して挙兵するが失敗、1396年(応永4)自刃し、若犬丸の遺児である宮犬丸と久犬丸は鎌倉に送られ、間も無く武蔵六浦湊に生きたまま海に沈められ、小山氏嫡流は途絶えた。「小山若犬丸の乱
大手口は東に向かい、居館跡と思われる谷戸内を囲むように馬蹄形に延びる稜線上に曲輪が築かれており、北東から南の山裾に土塁・横堀が設けられている。義政最後の地である「櫃沢の城」の所在については諸説あるようだが、思川対岸の民家裏手の山中に小山義政自刃地がある。
南麓、足利忠綱を祀る田原神社 大手口・館の泉跡 谷戸内
竪堀 桝形状の曲輪 武者溜
武者溜東土塁 武者溜東横堀 武者溜北帯曲輪
二の丸 本丸南堀切 本丸
本丸物見台 本丸物見台に立つ石祠 本丸物見台から西下を見下ろす
西麓を流れる思川 Mapion
小山義政自刃の地
南から城址遠望

参考文献 「とちぎの古城を歩く 下野新聞社」
           「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2022年1月