千葉県市川市国府台3丁目 --城址碑-- |
別名 | 市川城 |
交通 | 京成本線「国府台駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1479年(文明11) |
築城者 | 太田資忠 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 太田道灌・資忠 |
1455年(享徳4)鎌倉公方足利成氏が下総国古河へ逃れた頃、関東諸氏は古河公方派と上杉派に分かれ対立するようになり、亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後上杉方に転じた。しかし馬加城主馬加康胤はこれに同調せず、小弓城主原胤房と共に千葉城を攻撃し、その後多胡城・志摩城へ逃れた胤直・胤宣父子を攻め滅ぼすと、千葉宗家を継いだ。この時千葉氏一族の残党が実胤・自胤兄弟を擁して立て籠もった「市川城」が国府台城の前身とされる。しかし近年、この「市川城」は国府台から南東に延びる舌状台地南部、弘法寺が建つ地に在り、別の城であったという説もいわれている。 市川合戦に敗れた実胤・自胤兄弟は武蔵に敗走するが、1478年(文明10)自胤を援助する太田道灌はこの地に仮の陣城を構え、翌年道灌の弟資忠と自胤が臼井城を攻めた際、本格的に築城されたとされる。 その後国府台城は二度合戦の場となる。1538年(天文7)北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯連合軍との第一次国府台合戦、1564年(永禄7)北条氏康と里見義弘との第二次国府台合戦で、どちらも後北条氏側が勝利している。 1590年(天正18)徳川家康の関東入封で廃城となった。 |
羅漢の井 | 里見氏・兵士供養碑 | 夜泣き石 |
櫓台跡 | 空堀跡 | 土塁 |
城址から西方の眺め | 西下から見る城址 | 矢切台・大坂 第二次国府台合戦激戦地 |