千葉県市川市真間4丁目 --弘法寺-- |
別名 | |
交通 | 京成本線「国府台駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 1455年(康正1)頃 |
築城者 | 千葉実胤・自胤 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 千葉実胤・自胤 |
1455年(享徳4)鎌倉公方足利成氏が下総古河へ逃れた頃、関東諸氏は古河公方派と上杉派に分かれ対立するようになり、亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後上杉方に転じた。しかし馬加城主馬加康胤はこれに同調せず、小弓城主原胤房と共に亥鼻城を攻撃し、その後多胡城・志摩城へ逃れた胤直・胤宣父子を攻め滅ぼすと、千葉宗家を継いだ。この時千葉氏一族の残党が実胤・自胤兄弟を擁して立て籠もった「市川城」は国府台城とされているが、近年「市川城」は国府台から南東に延びる舌状台地南部、弘法寺が建つこの地に在り、別の城であったという説もいわれている。 1456年(康正2)市川城は成氏方簗田出羽守・南図書助らに攻められ落城、実胤・自胤兄弟は太田道灌を頼り武蔵国へ逃れた。その後の市川城について詳細は不明だが、小金城主高城氏または原氏が支配していたとも考えられる。 弘法寺境内には土塁が残されており、国府神社脇には堀切跡とも考えられる切通し道が通っている。 |
弘法寺境内に残る土塁 | 国府神社脇切通し道 |