千葉県千葉市花見川区幕張町3 --南から城址遠望-- |
別名 | |
交通 | JR総武本線「幕張駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 1180年(治承4) |
築城者 | 大須賀四郎胤信 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 馬加康胤 |
1180年(治承4)亥鼻城主千葉介常胤の4男大須賀四郎胤信がこの地を分与され、屋形を構えた事に始まると伝えられ、その後胤信が埴生郡へ移ると、千葉宗家が守るようになったという。 1455年(享徳4)鎌倉公方足利成氏が古河へ逃れた頃、関東諸氏は古河公方足利成氏派と上杉派に分かれて対立するようになり、亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後母の実家である上杉派に転じた。しかし叔父である馬加城主馬加康胤はこれに同調せず、小弓城主原胤房と共に亥鼻城を攻略、胤直・胤宣父子は多古に逃れ、胤直は弟胤賢らと共に志摩城、胤宣は多古城に籠り、再起を図る。しかし馬加康胤・原胤房らの追撃は早く、8月12日、多古城は馬加康胤に攻められ落城、僅か15才の胤宣は城外の阿弥陀堂で自刃した。続いて8月14日、志摩城も原胤房に攻められ落城、胤直は土橋の如来堂に立ち退き、別当院東覚寺に籠るが、ここも包囲され、翌15日、自刃して果て、千葉宗家は一旦滅亡した。 宗家を滅ぼした馬加康胤は千葉氏19代当主となるが、千葉家内乱を知った千葉氏一族である美濃国篠脇城主東常縁は、将軍足利義政の命を受けて東下し、千葉一族を動員すると、1456年(康正2)11月、馬加城、そして翌年4月、亥鼻城を攻めた。康胤は原胤房と共に防戦するが、その後上総国八幡に退き自刃した。 その後の馬加城についてはっきりしないが、1532〜55年(天文年間)千葉胤富が馬加の屋敷にしばらく滞在したと伝えられ、この頃にはまだ存続していたものと考えられる。 城址はマンションが建ち、大きく改変されているようで、遺構は残されていない。 |