志摩城

志摩城しまじょう
千葉県香取郡多古町島
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--塙台(主郭)--
別名      
交通 各線「空港第2ビル駅」からバス「道の駅多古」下車。
バス停から徒歩15分。
築城年代    
築城者    
形式 平山城
主な城主 千葉胤直・胤賢
平安時代末期より多古は千田荘の中心地で千葉氏の支配下に在り、千葉氏9代宗胤の子である胤貞は「千田殿」と呼ばれるように古くから千葉氏一族ゆかりの地であった。
志摩城の築城年代は不明だが、1455年(享徳4)千葉宗家が滅びる合戦の舞台となる。この頃関東諸氏は古河公方足利成氏派と上杉派に分かれて対立するようになり、亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後母の実家である上杉派に転じた。しかし叔父である馬加城主馬加康胤はこれに同調せず、小弓城主原胤房と共に亥鼻城を攻略、胤直・胤宣父子は多古に逃れ、胤直は弟胤賢らと共に志摩城、胤宣は多古城に籠り、再起を図る。しかし馬加康胤・原胤房らの追撃は早く、8月12日、多古城は馬加康胤に攻められ落城、僅か15才の胤宣は城外の阿弥陀堂で自刃した。続いて8月14日、志摩城も原胤房に攻められ落城、胤直は土橋の如来堂に立ち退き、別当院東覚寺に籠るが、ここも包囲され、翌15日、自刃して果て、千葉宗家は一旦滅亡した。この時胤賢とその子である実胤・自胤兄弟は多古を脱出、胤賢は小堤城で自刃するが、実胤・自胤兄弟は下総国市川城を経て、上杉方太田道灌を頼り、武蔵国に逃れる。そして道灌の援助を受け、実胤は武蔵国石浜城、自胤は武蔵国赤塚城に入城した。この系統が武蔵千葉氏であるが、宗家奪還を図るも果たせず、その後後北条氏の傘下に組み込まれた。
宗家を滅ぼした馬加康胤は千葉氏19代当主となるが、千葉家内乱を知った千葉氏一族である美濃国篠脇城主東常縁は、将軍足利義政の命を受けて東下し、千葉一族を動員すると、1456年(康正2)11月、馬加城、そして翌年4月、亥鼻城を攻めた。康胤は原胤房と共に防戦するが、その後上総国八幡に退き自刃した。1469〜87年(文明年間)跡を継いだ康胤の子である千葉氏21代輔胤の時、荒廃した亥鼻城に代わる新たな本拠として本佐倉城を築いた。
多古城から南東、栗山川流域の低地の中に島状に浮かぶ標高約18メートルの独立台地に位置し、塙台・二ノ台・鍛冶内等の地名が残る。八幡神社が建つ東側の台地が塙台で現在大半が耕地となるが、桝形状の地形や腰曲輪が残されている。
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二ノ台
二ノ台・塙台間には船着場が在ったと
伝わる
塙台下に立つ案内板
桝形虎口 腰曲輪 城址標柱
塙台に建つ八幡神社遠望 塙台から東側の眺め 北西から城址遠望
左・塙台、右・二ノ台

参考文献 「多古城郭保存活用会 HP」
         「房総の古城址めぐり 有峰書店」
             「千葉・神奈川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2021年11月