千葉県千葉市中央区南生実町 城址碑・案内板地図 --「古城」に立つ城址碑・案内板-- |
別名 | 南生実城・小弓御所 |
交通 | 京成千原線「学園前駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 1126年(大治1) |
築城者 | 千葉氏 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 原氏・足利義明 |
1126年(大治1)亥鼻城が築かれた頃、南の守りの要衝として築かれ、重臣である原氏が守ったとされる。 1455年(享徳4)鎌倉公方足利成氏が下総国古河へ逃れた頃、関東諸氏は古河公方派と上杉派に分かれ対立するようになり、亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後母の実家である上杉派に転じた。これに古河公方派の原胤房は馬加城主馬加康胤と共に亥鼻城を攻撃し、その後多古城・志摩城へ逃れた胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、康胤を千葉氏の宗主に立てた。 1509年(永正6)連歌師柴屋軒宗長が旅の途次、小弓城を訪れ、胤房の子である胤隆と連歌に興じた事が知られている。また胤隆の時、原氏の勢力は大きく伸長し、真里谷城主武田信保と衝突するようになる。1517年(永正14)信保は里見義堯と同盟すると古河公方足利高基の弟である義明を擁立し、小弓城を攻略、胤隆は根木内城に逃れ、原胤清も北条氏綱を頼り、逃れた。また原友胤・虎胤父子は甲斐国武田氏の下へ走り、後に虎胤は武田二十四将の一人として名を挙げる事となる。 以後義明は小弓城を拠点として房総の諸将を集めて勢力を張り、古河公方、北条氏綱と対抗するが、1538年(天文7)10月、第一次国府台合戦において義明は討死、一族は里見氏の下へ逃れた。氏綱は小弓城に入城し、原胤清も小弓城に復帰する事となるが、翌年北西1.5キロ程の北生実の地に新たな本拠として生実城を築いて移った。 南と西側は水田で、北は支谷に、東は大百池にそれぞれ画された標高20〜25mの舌状台地上に位置する。城は内城と外城の2つに分けられ、内城は現在案内板が立つ「古城」と呼ばれる中核部で現在墓地や畑となるが、西側に土塁が残されている。外城はこれに連なる一帯の台地で「松原」・「東堀」・「森台」等の地名が残されている。また台地基部にあたる北西端、「中鼻」(千葉市埋蔵文化財調査センター)付近にも土塁や堀が確認出来る。 |
大百池 | 八剣神社 | 八剣神社社殿 |
八剣神社下を通る切通 | 八剣神社西・天神社 | 八剣神社北側、「森台」 |
「古城」 | 「古城」北西を通る切通 | 「中鼻」に建つ文化財調査センター |