壬生城

壬生城みぶじょう
栃木県下都賀郡壬生町本丸1丁目
Mapion

--整備された土塁・堀--
別名 馬蹄城
交通 東武宇都宮線「壬生駅」から徒歩10分。
築城年代 1462年(寛正3)
築城者 壬生胤業
形式 平山城
主な城主 壬生氏・鳥居忠英
1462年(寛正3)壬生胤業が「柵の内(常楽寺の西方)」に築いた壬生古城に始まるといわれる。胤業は京都の公家壬生氏(小槻氏)の出といわれるが、近年では宇都宮氏の庶流横田氏の出身とも考えられている。
1469〜87年(文明年間)2代綱重の時、現在の城址公園を中心とする壬生城が築かれた。その後綱重は鹿沼に進出すると坂田山館を改修して新たな居城とし、壬生城は子の綱房が在城した。綱重の鹿沼進出の時期は不明だが、1509年(永正6)連歌師宗長が鹿沼の綱重の館を訪れている事からそれ以前の頃と考えられる。そして綱重没後、跡を継いだ綱房は1532年(天文1)鹿沼城を築くが、綱房は壬生城に在り、2男昌膳が鹿沼の御留守をしていたようである。
1576(天正4)壬生氏の内紛により4代綱雄は叔父である徳雪斎周長に謀殺されるが、1579年(天正7)綱雄の子義雄は周長を討ち、以後義雄は鹿沼城を居城とし、壬生城には城代が置かれた。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、義雄は義弟である皆川広照と共に小田原城に籠城するが、開城の2日後に病没し、壬生氏は滅亡した。
その後壬生城主は目まぐるしく交替している。結城秀康・日根野吉明・阿部忠秋と続き、更に三浦氏3代・松平輝貞・加藤氏3代が在城した。そして1712年(正徳2)近江国水口から鳥居忠英が三万石で入城すると、以後明治に至るまで鳥居氏が7代157年間在城した。
また壬生城は徳川将軍家の日光東照宮参拝における宿所としての役割を持っていた。将軍家の日光参拝は1617年(元和3)2代将軍秀忠の時に始まり、以後幕末まで19回行われたが、その内8回壬生城に宿泊している。
昭和に入り、本丸跡には壬生中学校が建設され、南側の土塁・堀を除いて大半の遺構が消滅した。中学校移転後は公民館・図書館・歴史民俗資料館が建設され、現在城址公園となり、南側の土塁・堀も整備されている。その他二の丸・三の丸・東郭・下台郭・正念寺郭が在ったが、市街地化により遺構のほとんどが消滅している。
本丸西側に建つ精忠神社は鳥居元忠公を祀り、社殿裏手に畳塚がある。1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、元忠は山城国伏見城を守っていたが、石田三成方の大軍に攻められ、約1ヶ月の攻防戦の末、自刃した。この元忠の忠義を賞賛した徳川家康は、自刃の際の血に染まった畳を武蔵国江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を忍ばせたといわれる。その後、明治に至り、江戸城が明け渡された為、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えたものという。また常楽寺には壬生氏・鳥居氏累代の墓が立つ。
壬生城址公園 土塁
精忠神社 畳塚 下台郭八幡
東郭・櫓台跡 常楽寺 常楽寺・鳥居氏累代墓

参考文献 「とちぎの古城を歩く 下野新聞社」
           「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2021年1月