三沢氏は清和源氏源経基の流れを汲む信濃国の飯島氏を祖とする。1221年(承久3)飯島広忠が承久の乱の戦功により出雲国三沢郷地頭職を与えられ、1302年(正安4)孫である飯島為長(為仲)が信濃国飯島郷から三沢郷雨川に下向した。そして1305年(嘉元3)この鴨倉山に三沢城を築いて移ると三沢氏を称したと伝えられる。以来280余年、三沢城は三沢氏代々の居城として続いた。 三沢氏はたたら製鉄により富を得、月山富田城主尼子氏の台頭まで出雲国最大の勢力を誇った。戦国時代に入り、三沢為国は尼子経久と度々争い、やがてその傘下に入るが、1560年(永禄3)頃、出雲国進出を目指す安芸国吉田郡山城主毛利元就に従うようになり、以後1577年(天正5)播磨国上月城合戦や1582年(天正10)備中国高松城合戦等、毛利方として転戦した。 1589年(天正17)三沢為虎の時、毛利氏の甘言により一族郎党と共に長門国厚狭郡に移され、1万石を与えられた。 標高418メートル、鴨倉山に位置し、山頂の本丸・鳥居ヶ丸を中心に北・東尾根に大小30以上の曲輪が築かれており、東麓には地名から一族郎党の屋敷が並んでいたといわれる。 三沢氏退去後の三沢城の詳細は不明だが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、出雲国に入部した堀尾氏が備後・伯耆の境目として前田丹波・堀尾但馬を置いたとされる「亀嵩之城」が当城であるともいわれ、北東山腹の十兵衛成と呼ばれる独立した曲輪や大手口は構造から堀尾氏により改修された可能性も考えられている。 |