三重県桑名市長島町西外面 --城址・案内板-- |
別名 | |
交通 | 近鉄名古屋線「近鉄長島駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 1245年(寛元3) |
築城者 | 藤原道家 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 伊藤重晴・滝川一益 |
1245年(寛元3)藤原(九条)道家により築かれ、その後1482年(文明14)伊藤重晴が再建したとされる。 1570年(元亀1)石山本願寺に呼応した願証寺4代証意を中心とする一向一揆衆が攻め落とし、伊藤氏を追放すると、本願寺の一大拠点となる。 この地は木曽川と長良川に挟まれたデルタ地帯で要害を誇り、14の砦を設けて織田信長に抵抗するが、1574年(天正2)信長の長島侵攻の際、四方から囲まれ、城砦は次々と落城し、追い込まれた一向一揆衆は長島城・屋長島城・中江城・大鳥居城・篠橋城の5ヶ所に立て籠もる。8月3日、大鳥居城は降伏を申し出るも拒否され落城、12日には篠橋城も落城し、両城を脱出した者は残る3城に逃げ込んだ。信長の大軍を前に、長島城に籠もる一揆勢はすべて討たれ、餓死状態に追い込まれていた屋長島城と中江城も四方から火を放たれ、男女2万人以上の死者を出し、壊滅した。戦後長島城は北伊勢五郡を領した滝川一益の持城となる。 1582年(天正10)3月、信長による甲斐武田氏征伐後、上野国と信濃国小県・佐久両郡を与えられた一益は上野国厩橋城へ移るが、6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れた一益は長島城に戻った。 1583年(天正11)賤ヶ岳合戦後、柴田勝家に与した一益に代わり、尾張国清洲城主織田信雄が領し、家臣関弥平次が守った。 その後城主は目まぐるしく替わり、1702年(元禄15)増山正弥が入城すると明治に至るまで7代増山氏が続いた。 現在城址は長島中部小学校・長島中学校の敷地となっている。連生寺に大手門が移築されている。 |
城址案内板付近 | 城址東を流れる堀跡と思われる川 | 連生寺に移築された大手門 |