北海道松前郡松前町神明 --東麓に立つ徳山大神宮-- |
別名 | 大館・徳山館 |
交通 | 各線「木古内駅」からバス「松城」下車。 |
築城年代 | 1400年(応永7)頃 |
築城者 | 安東氏 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 松前慶広 |
蝦夷地に和人が定着したのは11世紀頃からといわれ、1189年(文治5)源頼朝による奥州征伐の後、多数の藤原氏残党が海を渡り、道南に定着したのだという。 室町時代に入ると、津軽十三湊を拠点とする安東盛季は代官を派遣して蝦夷地を領有下に治めていたが、1443年(嘉吉3)南部氏との戦いに敗れた盛季は蝦夷地へ逃れた。この際の居住地について松前とされており、この時既に大館は存在していたと考えられる。 盛季の死後、安東政季が宗家を相続し、1456年(康正2)頃、再び内地へ戻り、河北一帯を領した。そして檜山を本拠として、檜山安東氏を名乗り、蝦夷地もその領有下に治めていた。 1457年(康正3)コシャマインの乱で大館は蝦夷によって落とされたが、すぐ回復し、下国氏が守護していた。 1512年(永正9)蝦夷は各館を攻め、翌年大館も再び攻め落とされたが、これは勝山館主で武田信広の子蠣崎光広の策謀によるものといわれている。1514年(永正11)光広は勝山館を一族に任せ、長子良広と松前に移ると大館を改装して徳山館と改めた。 1600年(慶長5)5代慶広はより海に近く、交易経済に便利な為、南方400メートルに位置する福山の台地(後の松前城の位置)に福山館築城を決定し、1606年(慶長11)に完成し移った。 徳山大神宮の西側が館址だが、登山口が見つからず遺構は確認出来なかった。 |
ゴローニン幽囚の地碑 | 東麓を流れる沢 | 大館北側・種月寺跡 |