和歌山県和歌山市太田 来迎寺地図 --本丸跡とされる来迎寺-- |
別名 | |
交通 | 各線「和歌山駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 1489〜92年(延徳年間)・1576年(天正4) |
築城者 | 国造紀俊連・太田源太夫 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 太田左近 |
備中国高松城・武蔵国忍城と共に、日本三大水攻めの一つとして知られる。 1576年(天正4)太田源太夫が築いたとされるが、築城年代や築城者には諸説あり、1489〜92年(延徳年間)第64代国造紀俊連が秋月城・三葛城と共に築城した事に始まるとも伝わる。 1577年(天正5)2月、織田信長による雑賀合戦の際、太田党は信長を先導した事によって雑賀党と対立、翌年両者は激しく争った。雑賀党は根来寺の僧兵を味方とする太田党を攻め切れず、その後雑賀孫市は太田左近に和睦を申し入れている。 1584年(天正12)小牧・長久手合戦の後、太田・雑賀・根来三党は連合し、豊臣秀吉に抵抗した為、紀州征伐が行われる。 1585年(天正13)3月、秀長・秀次を副将とする6万(10万とも)の秀吉勢は和泉国千石堀城等を落とし、次いで根来寺を焼き払った後、約5千人が籠もるこの太田城を囲んだ。秀吉は城を取り囲む総延長5〜6キロに及ぶ堤を築き、水攻めを行う。攻防1ヶ月、太田左近ら51人の首を差し出す事で他の者を助命する条件により、太田城は開城した。 |
小山塚 51人の首が葬られた3塚の一つ |
太田城毘沙門天 |
太田小北に残る水攻め堤跡 |