篠ノ丸城

篠ノ丸城ささのまるじょう
兵庫県宍粟市山崎町門前
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--本丸に立つ城址碑--
別名 熊見城
交通 各線「姫路駅」からバス「山崎」下車。
城址南東、最上山公園内から登山道があります。
築城年代 1345〜50年(貞和年間)
築城者 赤松貞範
形式 山城
主な城主 釜内氏・宇野氏・黒田孝高(如水)
1352〜56年(文和年間)白旗城主赤松則村(円心)2男である赤松貞範により築かれたと伝わるが、その子顕則の頃ともいわれ定かでない。またそれ以前要衝であるこの地には赤松氏一族の釜内氏が山岳陣地を築いていたともいわれる。
1441年(嘉吉1)嘉吉の乱で敗北し、城山城で赤松家が一旦滅亡した際、篠ノ丸城も落城したというが、その後赤松政則が赤松家を再興すると篠ノ丸城も回復し、西播磨守護代を務めた赤松氏一族である宇野氏が支配し、その後篠ノ丸城から長水城に本拠を移したとされる。
1538年(天文7)11月、出雲国尼子氏が播磨国に侵攻すると、長水城と共に篠ノ丸城も落城し、2年間尼子氏の支配下に置かれたが、その後再び宇野氏が復帰した。
1580年(天正8)1月17日、羽柴秀吉は三木城を攻略すると、4月、聖山城に本陣を置き、宇野氏諸城を次々攻略、長水城主宇野政頼の子である光景が守る篠ノ丸城も落城した。
その後宍粟は神子田正治、次いで1584年(天正12)7月、黒田孝高(如水)の領地となり、篠ノ丸城に本拠を置いたと伝えられるが、1587年(天正15)7月、豊前国中津に移った孝高に代わり、龍野城から入部した木下勝俊が南麓に山崎城を築くと篠ノ丸城は廃されたという。
標高324mの山上、通称「一本松」に築かれている。山頂に位置する本丸はほぼ方形で南北50メートル、東西40メートルの規模を持ち、播磨北西部では最大級といわれる。その周囲には階段状に多数の方形曲輪群が設けられ、北・西斜面には長大な横堀や畝状竪堀群が築かれている。本丸から西に二の丸が置かれ、西尾根は二重堀切で遮断している。
本丸東下腰曲輪 本丸南虎口 本丸南空堀
本丸南土塁 本丸南西隅櫓台跡 本丸西空堀
本丸 北曲輪 本丸北段曲輪群の一つ
本丸北斜面横堀・畝状竪堀群 本丸西斜面横堀 二の丸
二の丸に建つ東屋 二の丸から北西、長水城方面 二の丸北斜面畝状竪堀群
二の丸西二重堀切 Mapion
尼ヶ端(鼻)
尼子氏時代、宇野氏監視の為、
櫓が設けられた所という
東麓から城址遠望

参考文献 「現地案内板」
                          「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年12月