関宿城

関宿城せきやどじょう
千葉県野田市関宿町
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関宿城博物館地図

--関宿城博物館--
別名         
交通 東武野田線「川間駅」からバス「関宿城博物館」下車。
築城年代 1457年(長禄1)
築城者 簗田成助
形式 平城
主な城主 簗田晴助・後北条氏
1457年(長禄1)古河城主古河公方足利成氏家臣である水海城主簗田成助により築かれたといわれる。
1546年(天文15)川越合戦後、北条氏康は古河公方4代足利晴氏に政治的圧迫を加え、晴氏と氏康妹との間に生まれた義氏を5代公方に据える。これに公方家臣は反発し、特に公方家と婚姻関係を持つ簗田氏は反後北条派の中心的存在となる。また関宿の地は氏康が「あの地を取る事は一国を取るのに等しい」と述べているように北関東進出を目指す後北条氏にとって重要な拠点でもあった。1558年(永禄1)氏康は古河城と関宿城の交換を考え、古河城を簗田晴助に渡し、義氏を関宿城に入れるが、1560年(永禄3)上杉謙信が関東に進出すると、晴助は上杉氏と結び、晴氏の嫡男藤氏を擁立して関宿城を奪還した。
1565年(永禄8)氏康は岩槻城主太田氏資を先鋒に関宿城を攻めるが、晴助の伏兵により敗れた。
1567年(永禄10)頃、北条氏照は栗橋城を接収し、翌年付城として山王山城・不動山城(所在不明))を築いて関宿城を攻めるが、1569年(永禄12)後北条氏と越後上杉氏との間で和睦が成立し、関宿攻略は中止された。
1574年(天正2)上杉氏との交渉決裂後、後北条氏は関宿城を攻めると、簗田晴助・持助父子は開城し、水海城へ逃れた。後北条氏は関宿城を直轄支配し、北関東進出の拠点とする。
1590年(天正18)後北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入国すると、関宿城には家康の異父弟である松平康元が2万石で入城し、1616年(元和2)康元の子忠良が美濃国大垣城へ移るまで親子2代にわたり在城した。
その後関宿城には小笠原・北条・牧野・板倉・久世氏が入城し、明治を迎える。
城址碑が立つ付近が本丸とされ、僅かに堀跡と思われる水田が確認出来るが、約6千坪あったという関宿城は明治以降の河川改修や宅地化により、多くが失われている。
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関宿関所跡碑
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大手門堀跡
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教倫館跡
1823年(文政6)藩主久世広運の頃、
設立された藩校跡
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本丸跡
本丸跡に立つ城址碑 北側から本丸方面
関宿城博物館から城址遠景 関宿城博物館
関宿城移築門
逆井城址内

参考文献 「現地案内板」
                  「房総の古城址めぐり 有峰書店」
                      「千葉・神奈川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年5月