四条畷古戦場

四条畷古戦場
大阪府四條畷市雁屋南町

1348年(正平3)1月5日
楠木正行×高師直
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--楠木正行墓所--
交通 JR片町線「四条畷駅」から四條畷神社まで徒歩10分。
1336年(建武3)湊川合戦で楠木正成が討死してから10余年、1347年(正平2)その長子正行は北朝方の細川顕氏・頼春兄弟と争う。
8月14日、和泉・河内守護細川顕氏は3千の兵を率いて京を発し、天王寺から堺浦に布陣した。9月9日、正行は顕氏を誘き出す為、八尾城を攻め、これに細川勢が藤井寺に進軍すると、正行は翌10日攻撃を中止し、誉田まで撤兵する。
17日、正行は起伏に富んだ誉田の地形を利用し、誉田八幡の山陰から敵陣に迫り、夜襲した。顕氏は激しく抵抗するが、兵は浮き足立ち、その後天王寺に敗走した。
1348年(正平3)赤坂城を出陣した正行は吉野に参内し、河内往生院に着陣すると、足利方高師直は四条畷に進軍した。「太平記」に「懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」とあるが、6万余騎の大軍を5ヶ所に分け、布陣したとされる。
1月5日、正行は師直の陣を激しく攻めるも衆寡敵せず、弟正時と刺し違え自害した。その後25日、師直は南朝本拠であった吉野を占拠した。
楠木氏の跡を継いだ正儀はその後も南朝方として足利氏と戦った。
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四條畷神社
四條畷神社境内・楠木氏慰霊塔 Mapion
和田賢秀墓所
正行の従兄である賢秀は討死の際、
敵の首に噛み付き、敵はそれが因で
死んだという。

参考文献  「現地案内板」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2010年2月