有智山城

有智山城うちやまじょう
福岡県太宰府市内山
Mapion
登山口地図

--大手門跡--
別名 内山城・大宰少弐城
交通 西鉄太宰府線「太宰府駅」からバス「内山(竈門神社)」下車。
登山口まで徒歩10分。
築城年代 13世紀
築城者 少弐氏
形式 山城
主な城主 少弐頼尚
1190〜99年(建久年間)鎌倉幕府成立後、源頼朝の御家人である武藤資頼は鎮西奉行に任ぜられ、九州に下向し、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護職を兼ねた。次いで1224年(元仁1)大宰少弐に任ぜられると、以後代々武藤氏は少弐職を世襲し、少弐氏と呼称されるようになる。有智山城の築城年代は不明だが、この少弐氏により築かれたと考えられる。
1274年(文永11)少弐経資の頃、元寇の役が起こり、経資の弟景資は日本軍総大将として奮戦した。1281年(弘安4)再び元が襲来すると、経資は壱岐瀬戸浦合戦に活躍するが、子資時が討死している。
1336年(建武3)京での合戦に敗れた足利尊氏が九州へ逃れると、6代頼尚は迎えに出向くが、その留守中、有智山城は宮方に従う肥後国菊池城主菊池武重の弟武敏や阿蘇惟直・秋月氏らに攻められ、父貞経は自刃、有智山城は落城した。しかし尊氏が多々良浜合戦で菊池軍に勝利すると、頼尚も落城3日後、再び有智山城を取り戻した。
1350年(正平5)観応の擾乱後、九州は一色範氏を中心とする九州探題方・足利直冬を盟主とする佐殿方・懐良親王を擁立する菊池氏らの宮方3勢力が争う事となる。探題設置に不満を抱く頼尚は佐殿方に従うが、直冬が九州から追われると、父を討った仇敵でもある宮方と結ぶ。1353年(正平8)浦ノ城が範氏に攻められるが、菊池武光の救援により筑前針摺原合戦で勝利した。
探題勢力が九州から一掃されると頼尚は北朝方に転じ、1359年(延文4)大友氏時と連合して宮方と争うが、筑後川合戦に敗れ、間も無く大宰府を追われた。
その後周防国大内氏が現れると、少弐氏は次第に圧迫され、1433年(永享5)少弐満貞が敗死すると、一族は対馬国宗氏の下へ逃れた。
少弐政資の時、一時勢力を盛り返し、有智山城に復帰する。1496年(明応5)大内義興率いる大軍に攻められると、政資は岩門城、子の高経は肥前国勝尾城に籠り、抵抗するが、間も無く有智山・岩門・勝尾城は落城、肥前に退いた。
1559年(永禄2)1月、冬尚が龍造寺隆信により肥前国勢福寺城に攻め滅ぼされると鎌倉以来の名門少弐氏は滅亡した。
これまで有智山城は少弐氏代々の居城とされてきたが、近年は戦国末期の宝満山城の出城ではないかという説もあり、再検討されている。
大手門跡 内堀 井戸跡か
石積み 土橋・堀切 Mapion
武藤資頼・資能墓

参考文献  「福岡県の城郭 銀山書房」
                    「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2008年1月