山中屋敷

山中屋敷やまなかやしき
島根県安来市広瀬町富田
Mapion

--屋敷跡石碑--
別名         
交通 JR山陰本線「安来駅」からバス「市立病院前」下車。
屋敷址まで徒歩25分。地図の地点に入口案内があります。
築城年代             
築城者            
形式 屋敷
主な城主 山中幸盛(鹿之助)
月山富田城北東麓に位置する尼子氏家臣山中幸盛(鹿之助)屋敷跡。
1545年(天文14)幸盛はこの新宮谷で生まれたとされ、兄に代わり家督を継ぐと、尼子氏の部将として活躍した。
1565年(永禄8)4月、月山富田城は毛利元就率いる2万5千の大軍に包囲される。この攻囲戦の中、富田川堤を巡回していた幸盛は毛利方益田越中守藤包の家臣である品川将員に一騎討ちを申し込まれ、富田川の中州(川中島)で将員を討ち取ったとされる。翌年11月、月山富田城が開城すると、幸盛は尼子家再興の為に上洛し、新宮党尼子誠久の子で、京都東福寺に居た尼子勝久を擁立し、隠岐を経て真山城を攻め落とすと、尼子氏遺臣と共に立て籠もった。
1570年(元亀1)尼子再興軍は布部山合戦で毛利氏に敗れたが、幸盛は織田信長を後楯として再び挙兵し、1573年(天正1)丹波路から因幡に侵攻、翌年鳥取城を攻め落とした。しかし吉川元春・小早川秀景の鳥取侵攻の前に再び敗れ、但馬へ逃れた。
1577年(天正5)羽柴秀吉による中国征伐で、勝久と幸盛は上月城の守備を任されるが、翌年上月城は毛利勢に包囲され、秀吉の援軍を得られなかった勝久は自刃、上月城は落城した。幸盛は敗軍の将として、備中松山城にいる毛利輝元の下へ護送されるが、その途上松山城に程近い阿井の渡しで謀殺された。
屋敷跡は平場になっており、礎石らしきものもあるが、石碑が立つのみで遺構は特に確認出来ない。新宮谷周辺には新宮党館を始め、毛利元秋や堀尾忠氏の墓所等、山中屋敷同様に山を背に一段小高くなった平場が幾つか確認出来、それらも尼子氏家臣屋敷跡だという(新宮谷入口付近に周囲の史跡案内が立つ)。
屋敷跡 川中島一騎討之跡

参考文献 「歴史群像シリーズ 学研」」 
訪城回数 1
2012年10月