1615年(慶長20) 豊臣秀頼×徳川家康 --木村重成奮戦地碑-- |
交通 | 近鉄奈良線「若江岩田駅」から徒歩20分。 |
1614年(慶長19)大坂冬の陣の和睦により、真田丸は破却され、南の惣構え・外堀も埋められて、大坂城は本丸と内堀を残すのみとなった。 1615年(慶長20)5月、大坂方は裸城同然となった大坂城を出て河内・和泉の諸所に出陣、後藤基次・毛利勝永・真田幸村らは平野を経て道明寺まで進出した。 そして木村重成・長宗我部盛親・増田盛次ら2万の軍勢は生駒山麓を南下する徳川本隊を横合から攻撃する為、6日未明河内平野に進出する。この夜中の行軍の明かりは先頭の提灯一つだけであったという。この地は低湿地で、八尾近くは一面の深田地帯となっていた。 一方山麓を南下していた徳川方先鋒の藤堂高虎は、この地に今まさに布陣しつつあった大坂方に遭遇すると、全軍を西に走らせ攻撃を開始する。八尾に布陣していた長宗我部勢には藤堂仁右衛門らが押し寄せ、その後後続の井伊直孝も和江方面に布陣する木村勢に攻めかかり、ここに若江・八尾方面での全面合戦となった。長宗我部勢は堤防や河原を利用し有利に進めるが、やがて木村重成を討ち取った井伊勢が駆けつけると崩れ出し、敗走となる。そこへ渡辺勘兵衛らが追撃を開始し、長宗我部勢は久宝寺寺内町の堀と木戸門で食い止めようとするが破られ、殿を務めた増田盛次も討死し、大坂方は退却した。 7日大阪方は豊臣秀頼の守備隊として3千を大坂城に残し、残り5万余を天王寺口から岡山口に総動員し、最後の決戦に望む。しかし前日に敗れた盛親は大坂方の勝利は無いと確信し、この最終決戦には参加せず、青屋口を守っていたが、その後大坂方敗北の混乱の中脱出した。その後捕縛され、斬首となり、長宗我部氏は滅亡した。 |
飯島三郎右衛門墓所 重成に従い奮戦するが、 山口重信に討ち取られた |
木村重成像 |
蓮城寺 木村重成菩提寺 |
木村重成墓所 |
高塚地蔵 正安3年2月8日の銘をもつ。 吉田内匠がこの地蔵堂の陰から 槍を持って飛び出し、藤堂民部を 襲ったが討死したという |
長宗我部盛親・物見の松跡碑 盛親勢はこの地にあった松の上から 東方を偵察していたという。 また久宝寺今口門があり、追激戦で 藤堂隊はここから入ったとされる |