赤塚城

赤塚城あかつかじょう
東京都板橋区赤塚5丁目
Mapion

--本丸に立つ城址碑--
別名 千葉氏城・城山
交通 都営三田線「西高島平駅」から徒歩15分。
築城年代 1456年(康正2)
築城者 千葉自胤
形式 平山城
主な城主 武蔵千葉氏
1455年(康正1)関東諸氏は古河公方足利成氏派と上杉派に分かれて対立するようになり、下総国亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後母の実家である上杉派に転じた。しかし叔父である下総国馬加城主馬加康胤はこれに同調せず、下総国小弓城主原胤房と共に亥鼻城を攻略、胤直・胤宣父子は多古に逃れ、胤直は弟胤賢らと共に下総国志摩城、胤宣は下総国多古城に籠り、再起を図る。しかし馬加康胤・原胤房らの追撃は早く、8月12日、多古城は馬加康胤に攻められ落城、僅か15才の胤宣は城外の阿弥陀堂で自刃した。続いて8月14日、志摩城も原胤房に攻められ落城、胤直は土橋の如来堂に立ち退き、別当院東覚寺に籠るが、ここも包囲され、翌15日、自刃して果て、千葉宗家は一旦滅亡した。この時胤賢とその子である実胤・自胤兄弟は多古を脱出、胤賢は小堤城で自刃するが、実胤・自胤兄弟は下総国市川城を経て、上杉方太田道灌を頼り、武蔵国に逃れる。そして道灌の援助を受け、実胤は石浜城、自胤は赤塚城に入城した。
その後武蔵千葉氏は南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除する等、赤塚支配の強化に努めるが、やがて後北条氏が武蔵国に進出すると、その傘下に入り、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、赤塚城は廃城となった。
乗蓮寺に立つ二の丸跡碑
一説に出丸があったとされる
外堀跡
現在は2ヶ所、池となり残されている
二の丸
堀跡か 本丸西側 Mapion
伝千葉一族墓・松月院

参考文献 「現地案内板」
           「日本の城 小学館」
                    「東京・埼玉の城郭 新人物往来社」
訪城回数 3
2006年7月
2010年1月
2022年11月