石浜城

石浜城いしはまじょう
東京都荒川区南千住3丁目
Mapion

--石浜神社--
別名  
交通 JR常磐線「南千住駅」から徒歩20分。
築城年代 1455年(康正1)
築城者 千葉実胤
形式 平山城
主な城主 千葉実胤・自胤
1455年(康正1)関東諸氏は古河公方足利成氏派と上杉派に分かれて対立するようになり、下総国亥鼻城主千葉氏16代胤直ははじめ成氏に従っていたが、その後母の実家である上杉派に転じた。しかし叔父である下総国馬加城主馬加康胤はこれに同調せず、下総国小弓城主原胤房と共に亥鼻城を攻略、胤直・胤宣父子は多古に逃れ、胤直は弟胤賢らと共に下総国志摩城、胤宣は下総国多古城に籠り、再起を図る。しかし馬加康胤・原胤房らの追撃は早く、8月12日、多古城は馬加康胤に攻められ落城、僅か15才の胤宣は城外の阿弥陀堂で自刃した。続いて8月14日、志摩城も原胤房に攻められ落城、胤直は土橋の如来堂に立ち退き、別当院東覚寺に籠るが、ここも包囲され、翌15日、自刃して果て、千葉宗家は一旦滅亡した。この時胤賢とその子である実胤・自胤兄弟は多古を脱出、胤賢は小堤城で自刃するが、実胤・自胤兄弟は下総国市川城を経て、上杉方太田道灌を頼り、武蔵国に逃れる。そして道灌の援助を受け、実胤はこの石浜城、自胤は赤塚城に入城した。しかし実胤はこの地に長く留まらず、千葉氏の所領の1つである美濃国へ遁世したと伝えられ、自胤が継いだようである。
1479年(文明11)道灌が千葉氏22代孝胤が籠もる下総国臼井城を攻略すると、自胤は千葉介に任ぜられるが、その後再び追われ、石浜城に戻った。
やがて後北条氏が武蔵国に進出すると、武蔵千葉氏はその傘下に入り、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、武蔵千葉氏6代直胤(胤村・北条氏繁の子)を最後に石浜城は廃城になった。
石浜城の推定地は台東区浅草の待乳山とこの石浜神社の2つの説がある。

参考文献 「現地案内板」
                    「東京・埼玉の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2007年7月