1467〜87年(応仁〜文明年間)出雲国京極持清に備える為、伯耆国守護山名教之の配下山名宗之により築かれたと伝えられる。しかしこれは現在米子城が築かれている「湊山」ではなく、飯山であったと考えられる。 1566年(永禄9)毛利元就が月山富田城に尼子氏を攻め滅ぼした後、米子城には福頼元秀が置かれた。1569年(永禄12)主家再興を目指す尼子遺臣山中鹿之助が旧臣を集めて挙兵すると、米子城は秋上久家らに攻められ、元秀は討死した。その後古曳吉種が城主となる。 1591年(天正19)月山富田城を居城としていた吉川広家は、富田城が山奥で不便であった事から「湊山」に築城を開始するが、その後豊臣秀吉による朝鮮出兵に広家と吉種も従軍した為、工事は中断される。1598年(慶長3)築城が再開されるが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、広家は米子城未完のまま周防国岩国へ移った。代わって伯耆国18万石に封ぜられ、尾高城に入城した中村一忠により米子城の築城が再開され、1602年(慶長7)完成したとされる。 1609年(慶長14)一忠が亡くなると、跡継ぎが居なかった為に断絶、代わって美濃国黒野城から加藤貞泰が入城するが、1617年(元和3)伊予国大洲へ移ると、池田光政一族の池田由之、更に由成が城主となり、その後鳥取藩家老職の荒尾成利が入城すると、明治まで荒尾氏が続いた。 |