板橋城

板橋城いたばしじょう
栃木県日光市板橋
Mapion
登山口地図
--本丸・二の丸間堀切--
別名
交通 東武日光線「明神駅」から登山口まで徒歩15分。
築城年代 1504〜20年(永正年間)
築城者 遊城坊綱清
形式 山城
主な城主 板橋将監親棟
中世、板橋郷は日光山社領66郷の一つで、日光山衆徒36坊の一つ遊城坊の寺領であったとされる。遊城坊は代々宇都宮城主宇都宮氏一族が出家して住職となり、板橋郷・栗山郷等を社領とし、大きな支配地を持つ名坊であった。この事から板橋城は1504〜20年(永正年間)遊城坊綱清により築かれたと考えられる。
1532〜55年(天文年間)宇都宮氏と壬生城主3代壬生綱房との勢力争いが激化し、綱房は後北条氏に加勢を求めると、後北条氏家臣で武蔵国板橋郡板橋氏一族といわれる板橋将監親棟が派遣され、遊城坊綱清を攻め滅ぼし、新たな城主となった。以後板橋城と呼ばれるようになり、この時山城と麓のが整備されたと考えられる。
1576(天正4)壬生氏の内紛により4代壬生綱雄は叔父である徳雪斎周長と猪倉城主鹿沼右衛門らに謀殺されるが、1579年(天正7)綱雄の子義雄は周長を討ち、この時義雄に従う親棟は猪倉城を攻め落としたと伝えられる。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、義雄が小田原城内で病没すると親棟は帰国して降伏した。
板橋氏滅亡後、日光領は秀吉に没収され、結城秀康に与えられたが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、越前国へ転封となると、松平一生・成重父子がこの地を中心に加増され、1万石で板橋藩が成立した。松平氏の居館はこれまでの館跡が利用されたと思われる。
1617年(元和3)徳川家康没後、日光東照宮が創建されると、この地一帯は御神領となり、廃城となった。
標高443メートル、城山山頂の山城と北西麓の館から成る。山城は3段の削平地があり、西下には石垣と案内される岩がある。また東中腹には駒乗り馬場(コマノリバンバ)と呼ばれる平坦地もみられ、登山道途中の北ピーク、羽黒山付近にも土塁が確認出来る。
羽黒山 羽黒山南側土塁 二の丸北腰曲輪
二の丸 本丸・二の丸間堀切 本丸
本丸からの眺め 本丸下石垣 三の丸
三の丸南竪堀 駒乗り馬場(コマノリバンバ) Mapion
板橋将監親棟墓所

参考文献 「とちぎの古城を歩く 下野新聞社」
           「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2021年2月