築城者・年代は不明だが、平安時代、源義家がこの地に至り、遠見張りを置いた為、現在の「富張」の地名になったといい、また「神楽岡」の地名も神楽を奏した事に由来するという。 戦国時代、皆川城主皆川氏の支城として宇都宮城主宇都宮氏に対する北の守りの役割を持ち、両者の間で何度か激戦が交えられている。 1588年(天正16)3月、常陸国太田城主佐竹義重の援助を受けた宇都宮国綱は1万5千の大軍を率いて西方城と磯城に布陣し、皆川広照攻めを開始した。広照は諏訪山城まで出陣して迎え撃つが、多勢に無勢で城は落城、真名子から布袋ヶ岡城へ落ち延びた。この時皆川方の真名子城も落城しており、神楽ヶ岡城も同様に落城したものと考えられる。更に布袋ヶ岡城も宇都宮・佐竹連合軍に攻められ落城、広照は駒岡を固めていた日向野豊後守の陣に退いた。布袋ヶ岡城を落とし、西方城に戻った国綱であったが、壬生義雄進軍の報を受けると翌朝西方城を発ち、宇都宮城に帰城した為、広照も兵を退いた。
三ノ宮神社背後、緩やかな起伏の丘陵上に位置する。前面に馬出を設けた二郭と最高所の主郭から成り、東側を除く外周に空堀を巡らせている。また三ノ宮神社裏手にも溝状の窪みが見られ、出丸が築かれていたとも考えられる。
|