掛川城

掛川城かけがわじょう
静岡県掛川市掛川
Mapion

--天守閣--
別名 雲霧城・松尾城
交通 JR東海道本線「掛川駅」から徒歩15分。
築城年代 1512年(永正9)
築城者 朝比奈泰能
形式 平山城
主な城主 朝比奈泰朝・山内一豊
築城年代については諸説あるが、1469〜87年(文明年間)今川義忠が朝比奈泰煕に命じて掛川古城を築かせた事に始まるといわれ、1512年(永正9)朝比奈泰能が掛川古城から続く丘陵先端のこの地に掛川城を築いたといわれる。また1469〜87年(文明年間)以前、鶴見因幡守の砦があったとも伝えられる。
1568年(永禄11)12月、城主朝比奈泰朝は武田信玄に駿府城を追われた今川氏真を掛川城に迎える。12月27日より三河から遠江に侵攻した徳川家康勢に包囲され、半年の間良く防戦したが、翌年5月17日、掛川城を開城すると、氏真に従い、戸倉城を経て小田原城へ移ったという。
開城後、家康家臣石川家成・康通父子が入城するが、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、関東に転封された家康に従い、上総国成戸へ移った。代わって近江国長浜城から山内一豊が入城、この時三層の天守を設けられる等、今日に伝えられる遺構の基礎が築かれた。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、一豊は戦功により20万石で土佐国へ移り、代わって家康の異父弟松平(久松)定勝が下総国小南から3万石で入城した。
1607年(慶長12)定勝が山城国伏見城代に転じると、その子定行が在城した。続いて城主は安藤直次・松平定綱・朝倉宣正・青山幸成と続き、その後も目まぐるしく替わる。1746年(延享3)上野国館林から太田資俊が入城すると、明治に至るまで太田氏が続いた。
復元された大手門 十露盤堀 三日月堀
二の丸井戸 二の丸から見る本丸・天守閣 南から見る本丸・天守閣
本丸井戸 太鼓櫓 本丸から見る二の丸方面

参考文献 「現地案内板」
           「日本の城 小学館」
                 「日本城郭全集 人物往来社」
訪城回数 3
2006年5・8月
2008年9月