三浦屋敷

三浦屋敷みうらやしき
神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目
Mapion

--横浜国立大附鎌倉小・中学校--
別名          
交通 JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩15分。
築城年代 平安時代末期
築城者 三浦義澄
形式 屋敷
主な城主 三浦義村・泰村
鎌倉幕府創立以来の名族三浦氏屋敷跡。
1180年(治承4)8月、源頼朝が伊豆に挙兵すると、三浦義澄は頼朝と合流する為、石橋山へ向かうが、氾濫する丸子川(現酒匂川)に拒まれ、合戦に間に合わず、頼朝の敗北を知り引き返した。その途中鎌倉で当時平家方であった畠山重忠と対陣するが、重忠は義澄の父義明の外孫であった事もあり、この時は和睦し、義澄は衣笠城へ帰城した。しかし2日後、重忠は3千騎を率い衣笠城へ押し寄せる。三浦一族は城を抜け、久里浜から船出し、海上で頼朝と合流して安房に上陸したが、89歳の老齢であった義明は一人城に残り、討死した。
その後頼朝が鎌倉入りを果たすと、義澄は平家追討に活躍し、一族は幕府の要職を占めた。
1213年(建暦3)和田合戦の際、義澄の子義村は起請文まで書き、和田義盛に同心するが、直前で裏切り、北条氏方に付いた。
1247年(宝治1)4代将軍藤原頼経が5代執権北条時頼に鎌倉を追われると、三浦泰村は時頼と対立した。この時一度は和議が成立したというが、以前から泰村と不仲であった安達景盛の策謀もあり、時頼は三浦一族討伐を決意する。屋敷を攻められた泰村・光村兄弟は頼朝法華堂に籠もり、最後の抵抗をするが、自刃した。「宝治合戦
この合戦で三浦一族は滅びるが、佐原城主佐原盛時が時頼方に付いた為、その後三浦介を継いで三浦の命脈を保ち、新井城を築いて三浦半島南部を領地としている。
鶴岡八幡宮東北隣、大倉御所跡西隣の横浜国立大附鎌倉小・中学校敷地北半が屋敷跡とされる。

参考文献   「鎌倉合戦物語 雄山閣出版」
                    「中世都市鎌倉 遺跡が語る武士の都 講談社」
訪城回数 1
2016年1月