後瀬山城

後瀬山城のちせやまじょう
福井県小浜市伏原
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登山口地図

--本丸石垣--
別名 武田氏城
交通 JR小浜線「小浜駅」から登山口まで徒歩10分。
地図の地点、北東麓に建つ愛宕神社から登山道があります。
築城年代 1522年(大永2)
築城者 武田元光
形式 山城
主な城主 武田元明
1519年(永正16)若狭武田氏4代元信が隠居し、元信の没後、跡を継いだ若狭武田氏5代元光が、1522年(大永2)に築いたとされる。以後元明まで4代46年間若狭武田氏居城として続いた。
1538年(天文7)6代信豊の時、重臣粟屋元隆らが叛乱を起こし、鎮圧しているが、その後若狭武田氏は徐々に弱体化し、1558年(永禄1)子である義統と争う事となる。将軍家の仲裁の結果、信豊は隠居し、義統が実権を握るが、1561年(永禄4)粟屋勝久・逸見昌経ら家臣が再び叛乱を起こした。対抗する力の無い義統は越前朝倉氏に援軍を求め、砕導山城に立て籠もった叛乱軍を鎮圧するが、若狭武田氏の権力は失墜し、義統没後に跡を継いだ8代元明は名目上の守護となっていた。
1563年(永禄6)朝倉氏は国吉城攻めを開始するが、攻略出来ず、攻防は数年に及んだが、1568年(永禄11)朝倉勢は国吉城を迂回して、小浜の守護館へ押し寄せると、元明を拉致して越前に引き上げた。
1573年(天正1)織田信長の越前侵攻の際、一乗谷へ一番乗りを果たした粟屋勝久ら若狭衆によって元明は保護され、その後信長の旗本となる。元明が拉致されて以降、後瀬山城は一時荒廃したが、代わって入城した丹羽長秀により再整備が行われ、現在本丸付近に残る石垣はこの時のものと考えられている。
1582年(天正10)本能寺の変後、失地回復を狙う元明は明智光秀に同心し、長秀居城の佐和山城を攻め落とすが、山崎合戦で光秀が敗れた後、元明は長秀の手に落ち、謀殺(自害とも)され、若狭武田氏は滅亡した。
その後後瀬山城は浅野長吉・木下勝俊が入城し、1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、若狭に入部した京極高次が小浜城を築くと廃城となった。
北麓に建つ空印寺及び小浜小学校跡地は守護館跡とされ、往時は二重の堀を廻らせていたというが、現在遺構は残されていない。また東麓に建つ発心寺一帯は武田元光が隠棲した別所館跡とされ、元光墓所として宝篋印塔が祀られている。
北尾根段曲輪 枡形虎口か 北曲輪
土橋 堀切 本丸下石垣
本丸 本丸に立つ城址碑 本丸石垣
御殿跡へ続く通路 山上御殿跡 御殿跡土塁
御殿跡下竪堀 Mapion
北麓、武田氏守護館跡・現空印寺
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東麓、別所館跡・現発心寺

参考文献 「現地案内板」
                        「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年8月