岐阜県高山市城山 --本丸・使者之間石垣-- |
別名 | 天神山城・白雲山城・臥牛山城・冑山城 |
交通 | JR高山本線「高山駅」から徒歩30分。 |
築城年代 | 1444〜49年(文安年間) |
築城者 | 多賀出雲守徳言 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 高山外記・金森長近 |
1444〜49年(文安年間)飛騨守護京極氏の家臣で守護代を務めた多賀出雲守徳言により築かれ、近江の多賀天神を祀った事からはじめ天神山城と呼ばれていた。 1504〜21年(永正年間)には多賀出雲守の一族高山外記が城主であったが、1558年(永禄1)桜洞城主で、同じく京極氏の守護代であった三木自綱に攻められ落城した。 高山氏を滅ぼした自綱は、叔父久綱を天神山城に置き、自身は1579年(天正7)西方に松倉城を築くと桜洞城から移り、飛騨統一を目指す。 1582年(天正10)自頼は高原諏訪城を本拠とする江馬輝盛を八日町合戦で破ると、翌年には弟で鍋山城主顕綱を謀殺し、飛騨の大半を平定した。しかし1585年(天正13)羽柴秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近率いる討伐軍が飛騨に侵攻すると、三木氏は瞬く間に滅亡し、翌年飛騨国は長近に与えられた。 長近ははじめ鍋山城に入城したが、1588年(天正16)からこの天神山を本拠とすべく新たに築城を開始し、1600年(慶長5)に完成、この時高山城と改称された。 その後長近は秀吉に従い各地を転戦、1600年(慶長5)関ヶ原合戦においては徳川家康に従い、軍功を立て、美濃国上有知を加増されると小倉山城を築いて移り、養子の可重が代わって高山城主となった。以後重頼・直頼・頼業と続き、1692年(元禄5)頼時の時、将軍徳川綱吉の不興を買い、出羽国上山へ移された。 その後飛騨国は天領となり、高山城は破却されると、1695年(元禄8)西麓、金森氏時代の下屋敷に高山陣屋が設けられた。 城址は城山公園として整備され、見学しやすい。三層の天守を持つ総石垣の城であったとされるが、金森氏退去後、徹底的に破却され、現在は僅かに石垣が確認出来るのみとなっている。 |
北麓、三の丸(護国神社)堀跡 | 二の丸に立つ金森長近像 | 中段屋形 |
東北曲輪 | 水の手門跡 | 本丸東下石垣 |
本丸 | 本丸虎口石垣 | 南出丸 |