1575年(天正3)長篠合戦後、武田軍の勢力は次第に弱まり、1581年(天正9)高天神城が落城した。それは武田の衰えを内外に知らしめる事であった。同年2月、武田勝頼は自国防衛の必要性から、真田昌幸普請の下、七里岩台地上にこの新府城を築き、12月24日、躑躅ヶ崎館から移った。 1582年(天正10)2月、木曽義昌が武田に叛き、織田信長方に走った。これに勝頼自身が2万の兵を率い出陣するも、木曽・織田・徳川・後北条連合軍進撃の報を知り、新府城へ引き返す。3月1日、親類衆筆頭で江尻城主穴山梅雪までも叛いて徳川方に応じると、2日には最後まで奮戦していた高遠城も落城した。迫り来る織田・徳川連合軍を前に、急遽築城した新府城はすべてが不備で、3日勝頼は在城僅か2ヶ月余りであった新府城に火を放ち、小山田信茂の言を取り入れ岩殿城を目指し、その後田野において自刃、武田家は滅亡した。 武田家滅亡後、甲斐・信濃諏訪郡の領主となった河尻秀隆が武田家旧臣や農民等の国人一揆により討たれると甲斐国は一時的に無主地となり、徳川家康と後北条氏が領有を巡り争った。この時新府城は家康の本陣が置かれ、若神子城に陣を構える北条氏直と対峙した。「天正壬午の乱」 |