上之段城

上之段城うえのだんじょう
長野県木曽郡木曽町福島
Mapion

北(向城)から城址遠望
中央、グラウンド付近が城址
別名 福島城
交通 JR中央本線「木曽福島駅」から徒歩15分。
築城年代 1509年(永正6)
築城者 木曽義在
形式 山城
主な城主 木曽義昌
1394〜1428年(応永年間)須原を本拠としていた木曽親豊が小丸山城を築いて移った後、1509年(永正6)木曽義在によりこの上之段城が築城され、その子義康、孫義昌も居城した。
1545年(天文14)義康の頃、武田信玄の南下に伴い、両者は衝突するようになる。1555年(天文24)8月、信玄が木曽谷に侵攻した際、義康は上之段城、子義昌は小丸山城に籠もり抵抗するが、間も無く義康は和議を申し入れた。義昌は信玄の3女真理姫を迎えると、親族衆としての扱いを受け、本領を安堵された。
1575年(天正3)武田勝頼が長篠合戦で敗れると、武田家は徐々に衰退の一途を辿る。1582年(天正10)1月、義昌は織田信長に通じると、真理姫の内報を受けた勝頼は、木曽へ高遠城主仁科盛信を向かわせるが、鳥居峠で撃退された。2月勝頼は自ら2万の兵を率い出陣するが、木曽・織田・徳川・後北条連合軍侵攻の報を知り、新府城へ引き返した。その後田野で勝頼は自刃し、武田家は滅亡した。
戦後、義昌は木曽の他に安曇・筑摩二郡を加増され、深志城(松本城)へ入るが、本能寺の変が起こると、徳川家康の援助を受けた小笠原貞慶に深志城を奪われた。1584年(天正12)貞慶は更に木曽へ侵攻し、その際この上之段の館は焼き払われたが、義昌は詰城である福島城に籠もっていた為、難を逃れた。
1590年(天正18)木曽は豊臣秀吉領となり、義昌は下総国網戸へ1万石で移封となった。
大通寺付近が居館跡と考えられ、線路を挟み背後一帯が城址とされるが、現在グラウンドや関山公園となっており大きく改変されているようである。また上之段地区は、その後幕府の命により防塞の施設として整備されており、現在も鍵の手状の道や急な坂道等、地形や古い町並みが残る。
大通寺北側を通る坂道 大通寺・真理姫供養塔 大通寺背後を通る線路

参考文献  「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2008年4月