柳川城

柳川城やながわじょう
福岡県柳川市本城町
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--城址碑--
別名 柳河城
交通 西鉄天神大牟田線「柳川駅」から徒歩30分。
築城年代 1501〜04年(文亀年間)
築城者 蒲池治久
形式 平城
主な城主 蒲池鎮漣(鎮並)・立花宗茂
1501〜04年(文亀年間)蒲池城主蒲池治久により新たな本拠として築かれたとされるが、1558〜70年(永禄年間)蒲池鑑盛の頃ともいわれる。
1578年(天正6)高城川合戦の際、大友氏に従い出陣した鑑盛が討死すると、その子鎮漣は龍造寺隆信に従うようになり、各地で戦功を挙げた。しかし両者は不和となり、1580年(天正8)柳川城は龍造寺勢1万3千に攻められる。300余日に及ぶ攻防が繰り広げられたが柳川城はついに落ちず、隆信が女玉鶴姫を鎮漣に嫁がせる事で和議が成立した。
しかし鎮漣は再び心を翻し、島津氏に接近した為、隆信は鎮漣の叔父である田尻鑑種と計り、鎮漣を謀殺する事を決意。1581年(天正10)5月25日、隆信に招かれた鎮漣は佐嘉に到着すると、城北の本行寺に宿をとり、27日早朝、隆信居城である須古を目指して出発した。そして鎮漣一行が「与賀の馬場」を通り過ぎようとした時、突如龍造寺勢に囲まれ鎮漣一族郎党は討死、自害する。翌28日鎮漣の弟統安が守る柳川城は落城、龍造寺氏家臣鍋島氏が入った。
1584年(天正12)大友氏の筑後侵攻の際にも柳川城は落ちず、当時「柳川三年肥後三日肥前久留米は朝茶の子」と歌われた事が堅固さを物語っている。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、立花山城から立花宗茂が12万2千石で柳川城に入城した。1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、西軍に従った宗茂は奥州棚倉2万5千石に移封され、代わって三河岡崎城から田中吉政が入城した。
1620年(元和6)田中氏改易後、旧領主である立花宗茂が再び柳川城に復帰すると、明治まで立花氏が続いた。
現在城址は柳川高・柳川中学校敷地になっており、中学校グラウンド隅に天守閣跡とされる小丘と僅かな石垣が残されている。また城址南西にある「御花」は立花藩主別邸が造営された場所でもある。
城址碑 石垣 中学校東側を流れる水路は
堀の名残か
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城湟東北隅碑
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立花藩剣道師範渡辺氏屋敷跡
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水門跡

参考文献 「現地案内板」
                         「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2013年1月