兵庫県明石市新明町 --東から見る本丸跡-- |
別名 | 明石城・明石古城 |
交通 | JR山陽電鉄本線「西新町駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 1586年(天正14) |
築城者 | 高山右近重友 |
形式 | 平城(水城) |
主な城主 | 池田左近利政 |
1585年(天正13)8月、四国を平定し、全国制覇に向かっていた豊臣秀吉は国替えを行う。この時高山右近重友は、明石与四郎則実に代わって明石郡6万石を与えられ、摂津国高槻城4万石から転封した。はじめ枝吉城に入城した重友は、この船上城と城下建設に取り組む事となるが、一説にこの地には、元々別所山城守吉親が築いた林ノ城があったとされ、重友はその城を拡張したともいわれる。 間も無くバテレン追放令によって重友が追放されると城番が置かれ、1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、徳川家康の娘婿である池田輝政が播磨52万石を与えられ、姫路城に入城すると、船上城はその一族である利政・由之が城主となり、支城の役割を果たしていた。 1617年(元和3)7月、大坂夏の陣の戦功によって明石10万石を賜り、信濃国松本城から入部した小笠原忠真は、初め船上城に入城したが、新規築城が計画され、翌年1月から着工、明石城に移った。この時船下城・三木城・高砂城・枝吉城等の用材が解体利用されたという。 本丸跡とされる僅かな台地が畑の中に残され、堀跡と思われる段差が確認出来る。又内堀跡と伝えられる古城川が本丸の北・東を流れている。 |
本丸跡とされる微高地 | 織田家長屋門 船上城下、侍屋敷の門とされる |
明石城・巽櫓 船上城遺構とされる |