母里屋敷

母里友信屋敷もりとものぶやしき
福岡県福岡市中央区天神2丁目
Mapion

--屋敷跡碑--
別名  
交通 各線「天神駅」から徒歩5分。
築城年代 江戸時代
築城者 母里友信
形式 屋敷
主な城主 母里友信
黒田家家臣、黒田24騎、黒田8虎の一人母里太兵衛友信屋敷跡。
友信は播磨国御着城主小寺政職家老で播磨国姫路城代黒田職隆(小寺職隆)に仕えた妻鹿の地侍曽我一信を父とする。1569年(永禄12)職隆の子黒田孝高(如水)に出仕すると母方の姓をとって母里姓を称した。1573年(天正1)印南野合戦で初陣して以来、常に黒田軍の先鋒を務めて戦功を挙げた。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、孝高が豊前に入国すると、6千石を与えられ、文禄・慶長の役でも活躍した。また明との講和中、山城国伏見城に滞在していた友信は福島正則の屋敷で大盃の酒を飲み干し、正則から名槍「日本号」をせしめた話は黒田節として歌われている。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、筑前52万石を与えられて入部した黒田長政が福岡城を築いた時、国境防備の為、筑前六端城(若松城黒崎城鷹取山城益富城・松尾城・麻底良城)が築かれ、友信はその一つである鷹取山城に1万4千石で配された。その後1606年(慶長11)益富城主後藤又兵衛基次が逐電すると、後任として益富城へ移っている。また同年武蔵国江戸城普請の際、徳川家康に誤って母里の姓を毛利と書かれた為、以後毛利を称したという。
屋敷跡である天神駅西側、センタービル前に石碑が立てられており、また福岡城址に屋敷長屋門が移築されている。

参考文献 「現地案内板」
              「歴史群像シリーズ 学研」 
訪城回数 1
2017年1月